偉大なる何か。
大いなる何か。

これをなんと表現して良いかわかりませんが、
そういう何かが自分の中に存在していて、
その存在が導いてくれているものってあると思うんです。

ただ、その存在は、
ふだんはとっても地味で静かで、
いるのかいないのかわからないくらいの形のないものなんだと思うんです。

だけど、その存在の持ち主が危ない目にあいそうな時、
何らかの形を通して、
時には体調不良だったり、
時にはモヤモヤだったり、
時には怪我をすることで、
本来の行き先を示してくれていると思うんです。

なぜそんな形を取るのか。
それは、その存在には「言語」がないからだと思うんです。

もし、言語を使って「降りてくる」ようなことがあれば、
それは疑ってもいいと思うんです。

でもカラダを通して、体感を通して、訪れてくるものなら、
ちょっとしたことでもないがしろにしないほうがいい、、、、

わたしはそれを黄色信号という感覚で扱っています。
「進んでいいけど気をつけたほうがいい。
進まないほうがいいなら引き返そう。」

すぐに答えを出せない時は、
歩みながら注意を払う、、そんな感じです。

なんでこんなこと書いてるかっていうと、
今年に入ってから、わたしのそのセンサーはかなり感度が強くなっており、
そのセンサーに助けられていることがとても多くて多くて。

先日も、施術中に。
毎月来てくださるお客様の足に触れているとき、
なんともいえない「空洞」をそこに感じました。

何か大きな形で負担を受けたとしか思えず、
そのショックで、動けずにいるような状態。

最初は他愛ないお話をしながら施術していたんですけど、
どうしても見過ごすことが出来ず、
思い切ってお伝えしてみました。

「最近何か大きな負担を味わったことはある?
いつもと違うんですよね、何なのかわからないけれど。」

お客様は、しばらくじっとしてたんですが、
そういえば、、と何か言い出そうとしたかと思うと、
そのまま喋れなくなってしまいました。

落ち着くまで、この会話は中断しようと思い、
そのまま施術を続けていたところ、
ぽつりぽつりと語ってくださいました。

長年いっしょにやってきた仲間と、もう一緒にやれないかもしれないということ。
もし一緒にこれからもやっていくのなら、自分の在り方を曲げなければいけないこと。
それでもみんなが喜んでくれるなら、曲げるのも有りかなって思っていたこと。
でもそれは自分にとってはどうなんだろうっていう気持ちが、ずっと残っていたこと。
そんなわけでモヤモヤとしていたこと。

お話を聞きながら、
今、右にも左にも結論を出すことが難しい状態なんだなって思ったので、
わたしはわたしが受け取ったままをそのままお伝えすることにしました。

「いま足に出ているのは、これから忙しくなっていく相なのね。
だけど、そのための馬力を出せなくなっている状態が出ているよ。

なんだかね、空洞なの。
パワーがあったはずの場所に何もないの。

パワー、どこ行った?

チカラが出ない状態だよ。」

生活の手段として仕事をするなら、淡々とこなせばいいけれど、
仕事も人生もセットで、生き方と働き方が同じなら、
自分の生き方に沿わないことは大きなストレスになりますよね。

たとえ無関係なことでも、様々な経験が生きる時は、
経験していることすべてが自分の生き方に沿っている時。

そうじゃない状態で、様々な経験や人間関係が重なると、
ただただ疲弊してしまいます。

一緒にやっていけないかもしれないことを恐れないで、
今の気持ちを仲間にちゃんとお伝えしてみたらどうでしょう。

無駄に妥協して、今を平和に過ごせたとしても、
遅かれ早かれ、また同じことでモヤモヤは再発すると思うから。

それがどれだけ新しい可能性の足かせになってしまうことか。

少し前の登山の時のお話もさせて頂きました。
登山中、危ない目にあってもわたしは公の場で打ち明けることはしません。
叱られるのわかってますから(^_^;
お天気さえ良ければ平和な山なのに、
そうじゃない時は魔物になることもある富士山。

普通に登山してればいいものを、
最近は、レベルあげていまして。
1合目から歩きたいとか、二往復にトライしてみたいとか。

上にも行けない、下にも行けない、もう動けないという状態を、
一度だけ味わったことがあります。

そのとき、わたしを助けてくれたのは何かというと、
「もう動けない」という苦痛の奥に見つけた、安らぎの世界でした。

それは、苦痛の奥にあったので、
苦痛から逃げてしまうと触れられない世界でした。

だから、苦痛を通過してでも、
そこにもっと触れてみたい!といってもいいくらいの、
大きな大きな安らぎの世界を垣間見たんです、自分の中に。

とんでもない冷えと、空腹で、
極限状態だったんですね。
48年生きてきた中で、あんな極限は初めてかもしれません。

なのに、安らぎが奥にある。

その安らぎに触れるたびに、勝手にこみ上げてくる。
その安らぎに触れるたびに、知らない記憶が飛び出してくる。
その記憶から学んだことを、今の人生とどこでシンクロしているのかがわかってしまう。

ショックなはずなのに、安らぎなのです。

これ、みんなで楽しくおしゃべりしながらの登山だったら
触れられない世界だったかもしれません。
黙々と歩いていた時に、
もうこれ以上歩けないのになぜ登らなきゃいけないのっていう、
なぜわたしは登山をしているの?!っていう究極の問いかけを自分に・・・

登ったら降りてくるだけでしょ。

なんで登るの?!

これ、答えなんかないんです。

いま生きているわたしに、
なぜあなたは生きているのですか?って聞かれているのと同じくらいの問いですから。。

途中、自分でも知らなかった記憶が飛び出してきて、
その記憶を追体験しながら、歩き続けて。(歩けないので進んでないのですが。)

そしてわかったんです。
わたしはこの日本に生まれてくる時に、
かなりのことを忘れた状態で生まれてきたんだなということを。

ナンテコト・・!!!

あのときの大きな安らぎを表現出来る単語が、
わたしの知ってる日本語には存在しないため、安らぎとしか書けないです。

富士山が思い出させてくれたこの安らぎを、
絶対忘れたくないと思ったんです。
ストレスに感じることのほとんどが些細なことになってしまうほどの
大きな大きな世界でした。
人間って生きてるだけですごいんです。生かされているんです。
これさえあれば、わたしはもっと強く優しく生きていけると思ったし、
健康に生まれてきたことに感謝が溢れてきて止まらず、
今すぐに母にお礼を言いたい!と強く思い、、、

そして、失われていたパワーが戻ってきた体感があり、
また歩くことが出来るようになったんです。

あの復活の仕方は、わたしの中でもあり得ない。

そして残念なことに、
あんなに強烈だった体験も、
下山して下界に戻ってきた時には、半分以上消えてしまったんです。

やはり天空でしか気づけないこと、
極限に置かれないとわからないことがあるのかもしれません。

体験したことはもちろん覚えています。
偉大な何かと出会っているんです。
魂は、ちょっとやそっとでバテないということも。
とんでもなく大きいんですよ。

なのに、その時に味わったことを味わったままに再現するには、
もういろんなことが消えているので今となっては無理なのです。

あと、冷えと空腹もナメちゃいけませんので、
登山はやはり念入りな準備を怠っちゃいけませんね。

話、戻ります。

わたしが、そのお客様への施術中に触れさせて頂いてたのは、
それの輪郭に近いものがあったんですね。

お客様が絶対に失っちゃいけないものを、
失いかけていたので、
わたしの中ではとんでもない黄色信号だったんです。

でもそれだって、
「何か負担の大きなことでもあったの?」って聞くくらいしか出来ません。

聞かれたところで、お客様のほうも、
自分で自分に問いかけてみる姿勢がなければ見つけられないかもしれません。

こういう深さでセッションが展開されるときは、
「癒してください」「癒してあげます」では到底無理。

共同創造なんです。どんな時も。

手をさしのべても、墜ちてゆく人は墜ちてゆく。

でもちょっとの問いかけで、
一気にすべてが解決していく人もいる。

24時間、年中無休で心臓を動かしてくれているパワーは
一体どこから注がれているのでしょう。

心臓、肝臓、脳みそ、血液、etc、すべての内臓と皮膚が揃っていても、
心臓を動かすパワーが存在しなければ、
その肉体は生きて動くことが出来ません。

自分のカラダは、自分以上にいろんなことを予知してくれるので、
もっと信頼関係を強くしていけるよう、わたしが出来ることは何だろうか。

あるひとつの結論に達しました。

わたしもお客様に育てられているんだなって感じた瞬間でした。