とにかく、カラダはいつでもバランスを取っているので、
バランスを取るために食料が必要ならお腹も空くし、
バランスを取るために病気が必要なら病気にもなる、
だから、
バランスの軸が本来の位置に戻ろうとする時は、
必要だった空腹が消えることもあれば、
必要だった病気が消えることもある、、、
前回の記事の続きになるかもしれませんが、
カラダは自分以上になんでも知ってるんだなぁと改めて思いますね。
だいたい、痛いところに犯人はいないので(笑)、
だからといって、痛いところを放置するのも違うんです。
バランスなんです。
何か、大切なことを思い出させようと、
カラダが導いていることもある。
物理的に必要なケアも対応しながら、
カラダが教えてくれることは何なのかってことも目を向けていくと、、、
同じ環境のまま、まったく違う深さで世界を見る時があるんですよねぇ。
普通に生きてるだけでも、わたしたちはいろんな肩書きを持っています。
ある人は、わたしのことを「足モミ屋さん」だと思っています。
ある人は、わたしのことを「富士山が好きな人」だと思っています。
ある人は、わたしのことを「飽きっぽい人」だと思っています。
ある人は、わたしのことを「ストイックな人」だと思っています。
どれも本当だなぁとわたしも思っているので、
その場、その場で、求められてる立場で対応しています。自然に。
自然に。
そのように見られている自分が、本当の自分だと思ってしまうくらいに自然に。
これ、おかしいんですよね。
本当はね。
でも、多くはこの辺で止めておくくらいで、きっと平和なんですよ。
ただ、
一段とまた深いところから見る世界からは、
この辺で止めておくことの違和感といったら、なかなか不快なものです。
まるで、力を出し惜しみしている時のような、
ミネラルを摂り過ぎてる時のような、
無駄なもの多い系の疲労と似たようなものがあります。
きっと、これ、このまま体内に放置していたら、
そのまま物質化してしまって、
毒出し始めて病気になっちゃうんじゃない?
筋肉には、感情も記憶もちゃんと記録されていくので、
脳ではまったく覚えていないことでも、
筋肉にはちゃんと刻まれてしまうものがけっこうあるんです。
今回、北投石ブレスレットを着けて2ヶ月目に入るあたりから、
わたしはそんな感じの部分を、ずっと、
つっつかれていたような感じなんですね。
だから、今まで遠回しに伝えてもなかなか通じなかったことには、
遠回しすることをやめました。
はっきりと意思表示するようにしました。
そのことで一瞬気持ちは重たくなるのですが、
カラダはとても楽になってゆく。
気持ちが重くても、カラダが楽になるのなら間違いない。
カラダに合わせて、もう少し頑張ってみよう。
その繰り返し。
すると、カラダは、どんどんいろんな情報をくれるようになる。
次に必要な方向をどんどん導いてくる。
それに乗れないのは気持ちだけなので、
気持ち、とりあえず横に置いておき、
徹底してカラダに合わせて進んでみる。
その繰り返し。
そのうち、気持ちのほうもカラダに引っ張ってもらうようになり、
落ち着くところに落ち着いてゆくという締めくくりに。
このプロセス、けっこう大事かもしれません。
でも、嫌なことかもしれません。
考えたくないようなことが起きたら、
是非それを見てねってことでもあるからです。
嫌なことをなかったことにして、
ポジティブだけを保とうとしたら、
進んだ分だけ、闇も同じだけ深くなっていく。バランスだからね。
カラダが伝えてくるわけです。
人間関係も同じ。
健康も。
お金も。
やるだけやって、あとは気楽に進みましょう。
って感じの勢いがね。
ずっと続いています。
どのみち、人間のカラダは地球の部品のようなものだから、
誰かのために命を使っている時は、
自分のために命を使っている時でもあるので、
すべて、ひとつの命に繋がっているのかもしれません。
本当に自分と関係ない世界のことは、
良いも悪いも気持ちが動いたりはしないので。
カラダに合わせていくことを大事にしよう。
好きなこと「だけ」を追いかけていると、
本当に求めている世界を避けているのと同じなの。
好きか嫌いかは置いておき、
気持ちが動いたもの、カラダが反応しているものは、
自分だけは自分のカラダをちゃんと見てあげよう。
^_^